月夜がいなくなった道を見て目を細めた。春の日差しが麗らかだが彼女の心のうちは荒
波が立っている。
「何あれ」
 中指を立てもう片方の手の親指を地にむけ吐き捨てた。その夕香に声をかける人がいた。
「なにしてんだ。狐」
 振り返るとそこに夕香と同い年ぐらいの少年が立っていた。誰にそれを向けていたのか
が分かっているように苦笑を浮かべている。
「嵐」
「犬も何してんだかなあ」
「犬は犬でいいけど名前ぐらい言いなさいよ」
「めんどくさい」
 即答で返され夕香はがっくりとうつむいた。
「たぬは?」
「狸なら草原で同族と戯れてる」
 要するに逃げてきたのねと理解して溜息を吐いた。それを見て少年は、科内嵐は、土色
の髪を掻き乱して深くため息をついた。
「なんだ? 教官に正式にきちまったのか?」
「ああ」
 頷くとどうしてあんな事にというようにまたガックリと俯いた。
「……悪く思うなよ。あいつはああいう性質なんだ」
 月夜が消えた寄宿舎の扉を見据えて少年は目を細めた。この少年、古くからの月夜の腐
れ縁で月夜のよき理解者になっている。それに気付いたのはごく最近ではたから見ればと
ても仲が悪い。犬猿の中というがこの二人にとっては犬狼の仲となるのかとふと思ったり
している。
 月夜は犬神の血を引いている。とはいえども一族なだけであり元は人だ。ただ、昔から
特殊能力が出る術者の血を引いているだけだ。
 それとは反対に、夕香、嵐ともう一人、莉那は妖の血を引いている。合いの子とも呼ば
れ妖と人の混血児だ。夕香は狐の中でも善狐である天狐、嵐は妖狼、そして狸こと莉那は
呼ばれているとおり狸の妖の血を継いでいる。
 嵐は名を呼ぶのではなく血に混ざっている獣の名でこの三人を呼んでる。それはここの
敷地内だけの話であり、外に出たら他のあだ名で呼ぶ。それこそめんどくさいと思うのだ
がまだ、それを言った事はない。
「九尾の狐の輩と一緒にされるのは天狐として……」
「あいつだって分かるよ。天狐と九尾の違いは。だが、体が反応しているのだろう。……
あれは枷が外れると何をするか分からない。だから、近づいて欲しくないんだよ。枷が外
れてお前に何をするか分からないんだ。それを恐れてな」
 ふと頭によぎったのは教官の執務室にいた時に見た月夜の手が小刻みに震えていた事だ
った。もし、狐の妖気そのものが駄目であったら確かに何をされるか分からない。だが、
ただ、狐を恐れているように見えるのは何故なのだろうか。
「むかし、九尾に父親を殺され腹を刺されてな、それからあんな調子だ。昔はあんな暗い
奴じゃなかった」
 明るい月夜は今のこの姿からは想像がつかないだろうがなと嵐は寂しげに呟いた。
「それもそうよね。あんたと一緒にいたって事はそう言う事よね。でも想像できないな」
「そうだよな。むしろ悪がきはあいつのほうだったんだぜ? 俺は乗っているだけ」
 肩を竦めると嵐はふとあらぬ方を眺めやってふっと笑った。
「余計なこと言って悪かったな。じゃあ、がんばれよ」
 そう呟くと嵐は逃げるようにその場を去った。入れ違うように月夜が寄宿舎から出てき
た。
「なんだ、まだそんなところにいたのか」
 足も止めずにそう言うとポケットに手を突っ込んだまま言うと管理棟の隣にある食堂に
入って行こうとした。
「……いちゃ悪いの?」
 その言い方に内心カチン来た夕香は喧嘩腰に言った。月夜は深くため息をつくと夕香の
ほうを向いて冷たく言い放った。
「少しは黙ってられないのか?」
 低い言葉に夕香の中でプツリと切れた。飛び掛ろうとしたが月夜がいつの間にか夕香の
首筋に手を当てて隣に立っていた。
 首に手を当てられ動けないでいる夕香に月夜は鼻を鳴らした。
「見えなかったのか?」
 人を見下すようなその光を見て夕香の中で何かが切れた。思い切り月夜の脇腹に肘を入
れて離れると腰を下ろして太腿に取り付けてある刃に手を掛け月夜に襲い掛かった。月夜
も月夜で負けじとそれをかわし、間合いを置いて夕香を見る。
「うっせんだよ。てめえこそ」
 夕香は口元に牙をむき出して刃を構えている。本気かと月夜は思い深く溜息をついた。
「挑発に乗るようではまだまだ半人前だな」
 その言葉を聞くや否やまた夕香は月夜に飛び掛って行った。月夜は余裕の表情でその刃
を紙一重でよける。そしてそろそろ潮時だなと思うと夕香の刃を持つ手をそっと手に取り
上に上げた。
「放せ」
 見上げた顔には深い感情が渦巻いていた。夕香は目を見開いてその瞳に見入った。と、
その顔も一瞬で消え去りその言葉どおりに手を放された。
「いい加減にしろ」
 その声はいつもの静かな声だったが戸惑っているようにも聞こえる。夕香はとりあえず
刃をしまって背を向けて走り去った。その場には月夜だけが残された。
「……俺と同じなのか?」
 小さくなる背を見つめながら月夜は小さくつぶやいた。触れたときに感じられた彼女の
過去はとても悲しいものだった。五感で感じられるものではなく六感で感じられるある種
勘のような物で月夜は相手の過去を視る。
 幼い時に敬愛すらしていた兄に裏切られた悲しみ。そして、兄を追い集落の長老から兄
の抹殺を命じられた絶望。再び見えたあの兄は自分が知っている優しい兄ではなく人が違
ったように残虐な狐に成り代わっていた。同族を殺めたからなのだろうか、天狐であった
はずの兄は九つの尾をもつ野狐、九尾の狐と成り果てていた。もう、戻せないと知った深
い絶望。
「……兄に裏切られるか」
 月夜は、母に置いてかれた。美しい母と強い術者の力を持つ父の間に生まれた彼は、母
親譲りの切れ長の漆黒の瞳、すっと通った鼻梁、形のいい唇。白磁のように白く滑らかな
肌をもち、男にしては華奢な体をもちながら父親に似た強い力を自在に操り小学四年生の
時には並の妖は退治できていた。両親の良い所だけを問って生まれたような存在だ。
 母親に置いてかれたのは小学二年生のときの話だ。まだ、母親離れ出来てない時に去ら
れた幼い心は切り刻まれた。それでも協調性が無いがまともに人として暮らせるようにな
ったのは父が出来る限り隣に居てくれたからだ。
 だが、その父も、また、目の前でいなくなった。還らぬ人となった。それは小学六年の
時の記憶だ。それから、親戚を転々としこの学校に入る直前は、腹違いの兄のところに身
を寄せていた。そのときでも力の鍛錬は怠らなかった。ただ、復讐を思っていた。
 ちりちりと右腕が痛み、押さえた。右腕には狐の妖気に反応する刻印がなされていた。
無論、自分でやったのではなく気がついていたらあった。その刻印こそが彼が狐を苦手に
している要因でもあった。
 反応するだけならまだしも勝手に右腕が動き狐を殺そうとするのだ。それをしたことは
無いがその衝動を押さえる為に彼の精神力を蝕んでいるのは事実だ。
 ふわりと風が吹いた。父親に似た漆黒の髪が風にさらわれる。空をふと見上げ深く溜息
を吐いた。
 空はあの頃と同じで蒼く、果てしない。小さな頃は大きくなったら空に手が届くかもと
思っていたが距離はちっとも埋まってない。白い雲が流れる。月夜は、しばらく空を仰い
だままその場に立ち尽くしていた。

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